子どもが学校に行ったよ。

こんな自分だからこそ。日常が嬉しくありがたいです。

普通

 

改めて太宰治人間失格を読んだ。

と言うか聴いた。色々と便利で簡単にをありがたく思い、ふと感じる何かを書籍のタイトルになぞらえて自身を内省する。

主人公の不安や恐怖心、猜疑心に深い共感と安堵感を覚え愛おしくなる。

これが好きとは公言し辛いが、人間たらしめる潔さや心地良さにささやかな自由を得る。

そんなどうしようもない自分でもどこかに安住の地があるような儚い希望を見い出せ、そういうもんだと妙に納得したり、笑い飛ばせる気さえして明るさを取り戻す。

「世間とは個人」

四十を過ぎた辺りから、広く一般の世間が言っている事は大抵は自身の振り返りで、その人本人が感じている戒めみたいなものを、自分も大変苦労して来ているから、出来るだけ相手の為を思ってせっかくだから一生懸命伝えてくれている。が、受け取るかどうかは聞かされた側が決める。

魂の救済は聞いてもらっている側がされている。

そんな風に捉えれるここ最近、随分と自分は大人になったんだと少し誇らしいような、歳を取るという事は横柄で偉そうかつ鈍感になっているとも思えて複雑怪奇ではあると同時に、これから先の起こり得る出来事も、まあそれとなくゆけるのではないかと、自身が雄大な心持ちになった気さえして思わずふふと笑ってしまう。

子供を育てるとなった時、大人らしくあろうとしていた。親らしく、世間一般の人並みに普通で。

普通とは一体何だろう。

自身の楽しみや喜びはさて置いてでも、得ることの出来なかった一般的な普通の愛情を、愛しみを子供に全力で注ぎたかった。

でも持ち合わせてもいない、触れた事の無い自分の中には未だない未知の世界のもので、だからこそ目一杯頑張った。

「なんでうちは普通じゃないの?普通のお母さんがいい。」

普通って何?自分じゃない自分で無理してた。

なりたい自分や憧れの存在はあったとしても、自分がこうなりたいこんな服が似合うようになりたいこんなあんな…それは自分じゃない。

自分だけの唯一無二の良さが絶対ある。鏡の前でぼさぼさの髪でにいっと笑ってみる

もうええんちゃうかな。もう充分頑張った。

私も子供も。

もうここからは楽しいことばっかりでいい。