子どもが学校に行ったよ。

こんな自分だからこそ。日常が嬉しくありがたいです。

「自分は病気じゃない」

 

今週のお題「人生変わった瞬間」


子供が学校に行かなくなった時、もう何でも良いから手当たり次第に思いつく全てで状況を変えると決めて、「ただ子供が学校に行く」この目標を必ずやり切る。やるしかない。自分も含めそれ以外の他はどうなっても良いと思うぐらい真剣に向き合いました。

 

 

私は結婚後専業主婦になり、田舎の親戚付き合いもある、盆、正月に全員が主人の実家に集まる家に嫁ぎました。それまでは核家族で育ち子供を産むつもりはなく、世間からの無言のプレッシャーや周りの産むのは当たり前な感じから、元々自分の事は何でもどうでもいいのと、言われた事は全部やるみたいな性格で、産婦人科に通い始め「卵管造影検査」の麻酔で意識を失いかけたりしているうちに、子供を授かり、主人と2人でほぼ寝ない子どもの夜泣きを貫徹でこなしなから、下の子が産まれ幼稚園にと人並みに育って行きました。

 

サラリーマンの主人の収入だけでは私立の大学費用が心元なく、子供の出産時から積み立てをしていましたが、早い段階で勉強することに慣れてしまえば良いのではないかと考え、5歳の年長さんを小学校受験の塾に入れ、盲目的な信者のもはや母親でなく暴君になっていました。どんな事でも親子共に楽しんで日常にある遊びの延長線上に、お話に出て来た場所を実際に訪ね本の世界観を子供と一緒に楽しんだり、パズルやクイズゲーム、地方の旅で歴史や特産物を堪能し子供のよい思い出と知識をリンクさせるなどもっと色々やり方はあった筈なのに、子供を親のエゴに巻き込んでしまいました。

 

小学校受験は当然上手く行かず、地域の学校に行き始めた頃から子供は頭が痛くなり、長期に渡る入院で様々な検査をしました。その後病院の勧めるまま危険な脊髄の髄膜を採る検査をしても原因は見つからず、服用する薬の量や採決される血液の量の多さにさながらモルモットのようでした。それでも頭痛は続き痛み止めの坐薬を入れ続け、1か月程してようやく溶連菌からの免疫不全の可能性があるかも知れない事が分かりました。それまでも病院では抗生物質や薬剤を子供に投与していたのですが、効果的な治療法は見つかりませんでした。

 

 

私の母は難病だったので、そもそも人智の及ばないことが在るのだろうとは考えていましたが、今子供が苦しんでいる現状を誰にもどうにも出来ない事実に、母親の私がしてきた事のせいで子供を苦しめているにもかかわらず、急に降って湧いて来たかのようにただ愕然とし、その姿はまるで代理ミュンヒハウゼン症候群のようでした。それでも諦めずに代替療法や思いつく限りの出来る事で必至に子供に向き合っていました。そうして行く内に私は段々ともう駄目なのではないか、諦めないといけないのではと絶望的になり、もう子供の求める全て何でもやらせれば良いのではと、こっそり内緒で病院の休憩室の人の居ない時間を見計らって、マクドナルドのビックマックとテリヤキのとんでもないセットを2人で食べたり、もう生きてるだけでいいから最後に好きな様にさせてあげたい気持ちと、治るかも知れない可能性の在る何かが尽きて来た状態に敗れ被れでした。

このまま病院にずっと入院していてはこの子の残り少ない、まだ6年程しか過ごしていない人生を台無しにしてしまうと、とにかく退院を希望し先生方も引き留める事はなく、ただ通院はさせると約束し退院しました。

入院当時から検査毎に大きい注射器5本分の採血は続き、脊髄の髄液を抜く注射も変わらず勧められ、これでは私が幼少期にみた母親の眼球注射をし続け、治療の度にぐったりしていた光景と何も変わらない事に焦燥感と激しい怒りが込み上げ、もうここじゃ無い何かが違う間違っていると、薬も痛み止めも本人がどうしてもの時に自分でと任せて、食べたいと言う物を食べ、好きなように自由にし、旅行にも行き学校にも少しづつ登校して行く内に症状が出る時間が減り治まって行きました。それ以降はできるだけ子供への干渉を止め、小3あたりから塾にそろそろ通い始める同級生の話を聞いても「どうする?」ぐらいで、あまり立ち入って行かないようにしていました。

 

その頃から自分にも少し時間の余裕が持てるようになり、以前から私はもっと精神的に強くなりたい、今の自分は何かがうまくいっていないと、哲学、心理学、物理学、自己啓発本認知行動療法、アロマ、スピリチュアルなど独学で書籍を読み漁ったりしていました。

 

子どもが小学6年生になった頃私は働きに出ました。以前から好きで興味のあったアロマセラピーのオーナーに週1で雇ってもらえました。ですがサラリーマンの主婦に勉強するアロマ代は負担が大きくダブルワークで某大手アパレルにともう私のやりたい事をやる為に2年程がむしゃらにやっていたら、子どもが学校に行かなくなりました。

 

自分は1つの事に集中した方が良いと考え、仕事を辞め子供に専念することができました。けれども一念発起して自分の居場所を作る為にやってきた、アロマもアパレルの社員になる事も一旦保留にし絶対に結果を出す、それまではずっとやり続ける死んでも諦めないと決めました。でもなぜかどうしても悔しい気持ちが拭いきれず、自分自身との気持ちの折り合いをつけようと、今はそれじゃ無い、私の子育てはめちゃくちゃだったから子供が学校に行かなくなった責任は全部自分にある。だからやるべき責任を負わなければ、絶対に子供は悪くないし問題は私にある。本気でやり方を変えよう。自分を変えると決めました。

 

 

数々のトライアンドエラーに、子供にも大変な思いをさせたと思います。でもその時に病院に1度診てもらうかと本人に聞いた事がありました。私の勝手な行動にこれ以上子供に辛い思いをさせたくないとの考えからでした。

 

「自分は病気じゃない」

 

子供の口から出たひと言に、ああそうだ、本当にその通りだと、今まで自分が子供にしてきたことへの贖罪と自身の懲りない奢りを、一度ならず二度までも身を挺して思い出させてくれた子供に心からの感謝の気持ちでした。子供が私のように生き辛い悲しい思いをせず普通にちゃんとした人間に育って欲しいと、自分とは違う別人格の1人の人間として見れず私の傲慢さに付き合わされて育った子供は、自分自身の考えをはっきり真正面から相手に伝え、とんでもない親から自分の身を守れる大人にと成長していました。

子供が学校に自分から行くと決めて動き出したのはそれから半年後の事でした。