「それが出来る人だと思っているよ」
私の父は単身赴任で会えなかった時、無造作にものが散らかっている私の机の上に、メモを置いてくれていました。そこにはこの言葉が書いてありました。
ある参観でもない日の学校に、ほんの少しの間だけでしたが急に父が来てくれていたり、私の母の事や家庭のことを誰にも話していなかったので、周りの友達は不思議そうにしていましたが、仕事で会えることのなかった私との時間を作ってくれている、自分の苦しさを理解してくれている父が私を支えてくれている、信じて応援してくれていると言う感覚が、日常的な会話を交わした記憶はあまり無いのですが、言葉にしなくても態度で伝わるのだなと、愛情ってそういうものなのかなと今では思えます。
母が難病だったこともあり、学校行事に親が参加する事は不可能でしたお弁当もままならないし、まして、親と運動会でご飯を食べる時、一般的なイベント、祭日や休日は楽しく両親と過ごす友達と遊ぶことも出来ず、行く先も無かったせいか未だに好きになれません。ですがこのメモを見たときに、私は出来ることを頑張ろうと思えました。
入退院を繰り返していた、母への生死に対する絶望的な先の見えない不安な気持ちや、日常に支障をきたしていたこともあり、子供らしい子供の感情を味わいづらかったと言うこともあります。
ただ、そんな気持ちの中でも、淡々と生きて来れたのは、父からの信頼を感じれる、そんな一言だったのだと思います。
今自分が思っている1番根っこの素直な気持ちを相手に伝えてみる。
あなたはできる
褒めるのは、自分より下に見ている。自分の庇護の元にあるものに対して使う言葉。
ストレングスは強み
フィードバックは気付き
持って生まれた強みを本人に気付いてもらう
出来ている事に認め寄り添う
改めて自分自身の良さを本人が再確認する事です。
それでいい
そういうもん
今週のお題「日記の書き方」
日常にしょんぼりすることがあった時。
誰かに聞いてもらえたら、寄り添ってもらえたらなぁって言う自分に対して手紙を書いているような今日の日記。
夜通し大雨が降って、強風で窓がガタガタ言ってても夜は明ける。
日増しに寒くなって、あともう少しだけ寝ていたいけど電車の時間は迫ってる。
昨日見たいと録画していた映画も、急な来客で予定変更。
車に乗り込んで、仕事の途中でパンクでレッカー移動。
それでも予定はある、宿題もノルマもやることも、やりたいこともいっぱい
その時までの時間までもうギリギリ。
もうあれもこれもそれも全部足りない…
涙が出そうになって、こぼれないように上を見たら、強風のおかげで空がすごく綺麗で、自力ではもうどうしようもなくて、レッカー車が来るまでぼんやり空を見てた。
もう何にもない足りないと思ってた。でも、空はどこまでも広がってて、田舎道の真ん中で空気も綺麗で、とりあえず止めさせてもらったセブンのオーナーさんはいい人で、子供からタクシー手配のLINEもあり、家族やいつもそばに居てくれる周りの人達が、車とタイヤの手配も…私にはいっぱいある。なんてありがたいんだろう。いろんなものがもう無限にどんどん自分に降り注がれてるような気がして、日々追われるような日常にちゃんと一度足を止めて確認したほうがいいよって言ってもらえた気がした。
過干渉の親、自分嫌いの私、不登校の子供
世代が順番に替わり、立場が変わるとあの時はこうだったのかと色々見えて来る。
そうしてずっと同じように問題解決が先送りにされ、繰り返し何世代にも渡って受け継がれて行く。
親の思いが大きければなお、それは重くのしかかる。
問題の解決を人に委ねている間、自我は芽生える事なく、いつ迄もアダルトチルドレンとして生きて行く事になる。
過干渉の親はその子供を見てさらにいつまで経っても面倒を見続け、負の連鎖が続く。
自分が無いままに生きていく親許では、何かにつけて親が優先され、子供の主張は通らず、行き場の無いままに自分を無視し続けてきたその子は不登校にたどり着く。
誰でも皆んな自分の思うように生きたいと願ってる。
どんなに不安で恐ろしくても、まずは1人で立ってみる。上手く行くなんて筈ない。ただ解放感の風を感じて心地よい。
ゆっくりそっとでいい、色々あって
大コケして。周りに誰も居ないかもしれない。
辛くて耐えられないかもしれない。
でも、自分で、一人でやってみた。
ただ一歩ふみ出せた自分を先ずは受け入れてみよう。
この苦しみの中で前に踏み出せた自分。
誰からも理解や共感はない。だからこそ
賞賛に値する。
本当はとんでもなく素晴らしいこの一歩に。
「自分は病気じゃない」
今週のお題「人生変わった瞬間」
子供が学校に行かなくなった時、もう何でも良いから手当たり次第に思いつく全てで状況を変えると決めて、「ただ子供が学校に行く」この目標を必ずやり切る。やるしかない。自分も含めそれ以外の他はどうなっても良いと思うぐらい真剣に向き合いました。
私は結婚後専業主婦になり、田舎の親戚付き合いもある、盆、正月に全員が主人の実家に集まる家に嫁ぎました。それまでは核家族で育ち子供を産むつもりはなく、世間からの無言のプレッシャーや周りの産むのは当たり前な感じから、元々自分の事は何でもどうでもいいのと、言われた事は全部やるみたいな性格で、産婦人科に通い始め「卵管造影検査」の麻酔で意識を失いかけたりしているうちに、子供を授かり、主人と2人でほぼ寝ない子どもの夜泣きを貫徹でこなしなから、下の子が産まれ幼稚園にと人並みに育って行きました。
サラリーマンの主人の収入だけでは私立の大学費用が心元なく、子供の出産時から積み立てをしていましたが、早い段階で勉強することに慣れてしまえば良いのではないかと考え、5歳の年長さんを小学校受験の塾に入れ、盲目的な信者のもはや母親でなく暴君になっていました。どんな事でも親子共に楽しんで日常にある遊びの延長線上に、お話に出て来た場所を実際に訪ね本の世界観を子供と一緒に楽しんだり、パズルやクイズゲーム、地方の旅で歴史や特産物を堪能し子供のよい思い出と知識をリンクさせるなどもっと色々やり方はあった筈なのに、子供を親のエゴに巻き込んでしまいました。
小学校受験は当然上手く行かず、地域の学校に行き始めた頃から子供は頭が痛くなり、長期に渡る入院で様々な検査をしました。その後病院の勧めるまま危険な脊髄の髄膜を採る検査をしても原因は見つからず、服用する薬の量や採決される血液の量の多さにさながらモルモットのようでした。それでも頭痛は続き痛み止めの坐薬を入れ続け、1か月程してようやく溶連菌からの免疫不全の可能性があるかも知れない事が分かりました。それまでも病院では抗生物質や薬剤を子供に投与していたのですが、効果的な治療法は見つかりませんでした。
私の母は難病だったので、そもそも人智の及ばないことが在るのだろうとは考えていましたが、今子供が苦しんでいる現状を誰にもどうにも出来ない事実に、母親の私がしてきた事のせいで子供を苦しめているにもかかわらず、急に降って湧いて来たかのようにただ愕然とし、その姿はまるで代理ミュンヒハウゼン症候群のようでした。それでも諦めずに代替療法や思いつく限りの出来る事で必至に子供に向き合っていました。そうして行く内に私は段々ともう駄目なのではないか、諦めないといけないのではと絶望的になり、もう子供の求める全て何でもやらせれば良いのではと、こっそり内緒で病院の休憩室の人の居ない時間を見計らって、マクドナルドのビックマックとテリヤキのとんでもないセットを2人で食べたり、もう生きてるだけでいいから最後に好きな様にさせてあげたい気持ちと、治るかも知れない可能性の在る何かが尽きて来た状態に敗れ被れでした。
このまま病院にずっと入院していてはこの子の残り少ない、まだ6年程しか過ごしていない人生を台無しにしてしまうと、とにかく退院を希望し先生方も引き留める事はなく、ただ通院はさせると約束し退院しました。
入院当時から検査毎に大きい注射器5本分の採血は続き、脊髄の髄液を抜く注射も変わらず勧められ、これでは私が幼少期にみた母親の眼球注射をし続け、治療の度にぐったりしていた光景と何も変わらない事に焦燥感と激しい怒りが込み上げ、もうここじゃ無い何かが違う間違っていると、薬も痛み止めも本人がどうしてもの時に自分でと任せて、食べたいと言う物を食べ、好きなように自由にし、旅行にも行き学校にも少しづつ登校して行く内に症状が出る時間が減り治まって行きました。それ以降はできるだけ子供への干渉を止め、小3あたりから塾にそろそろ通い始める同級生の話を聞いても「どうする?」ぐらいで、あまり立ち入って行かないようにしていました。
その頃から自分にも少し時間の余裕が持てるようになり、以前から私はもっと精神的に強くなりたい、今の自分は何かがうまくいっていないと、哲学、心理学、物理学、自己啓発本、認知行動療法、アロマ、スピリチュアルなど独学で書籍を読み漁ったりしていました。
子どもが小学6年生になった頃私は働きに出ました。以前から好きで興味のあったアロマセラピーのオーナーに週1で雇ってもらえました。ですがサラリーマンの主婦に勉強するアロマ代は負担が大きくダブルワークで某大手アパレルにともう私のやりたい事をやる為に2年程がむしゃらにやっていたら、子どもが学校に行かなくなりました。
自分は1つの事に集中した方が良いと考え、仕事を辞め子供に専念することができました。けれども一念発起して自分の居場所を作る為にやってきた、アロマもアパレルの社員になる事も一旦保留にし絶対に結果を出す、それまではずっとやり続ける死んでも諦めないと決めました。でもなぜかどうしても悔しい気持ちが拭いきれず、自分自身との気持ちの折り合いをつけようと、今はそれじゃ無い、私の子育てはめちゃくちゃだったから子供が学校に行かなくなった責任は全部自分にある。だからやるべき責任を負わなければ、絶対に子供は悪くないし問題は私にある。本気でやり方を変えよう。自分を変えると決めました。
数々のトライアンドエラーに、子供にも大変な思いをさせたと思います。でもその時に病院に1度診てもらうかと本人に聞いた事がありました。私の勝手な行動にこれ以上子供に辛い思いをさせたくないとの考えからでした。
「自分は病気じゃない」
子供の口から出たひと言に、ああそうだ、本当にその通りだと、今まで自分が子供にしてきたことへの贖罪と自身の懲りない奢りを、一度ならず二度までも身を挺して思い出させてくれた子供に心からの感謝の気持ちでした。子供が私のように生き辛い悲しい思いをせず普通にちゃんとした人間に育って欲しいと、自分とは違う別人格の1人の人間として見れず私の傲慢さに付き合わされて育った子供は、自分自身の考えをはっきり真正面から相手に伝え、とんでもない親から自分の身を守れる大人にと成長していました。
子供が学校に自分から行くと決めて動き出したのはそれから半年後の事でした。
属性
今週のお題「わたし○○部でした」
テニス漫画に憧れて、硬式に女子は入部不可だった為仕方なく軟式へ。今となってはそこまで立派な肩幅に成長せずに済んだと、子供の頃の自分の意図と今の気持ちの帳尻を勝手に擦り合わせているが、やはり花形は硬式で当時の謎の括りや縛りが未だに腑に落とし切れない。
ルーツや、学歴、やってきたスポーツ、自分が何かに属してる、共感を得る誰かと同じそれは安心材料になり得ると思う。
そこにさえ居れば、入りさえすれば肩書きや名の通った大きい後ろ盾が有れば、皆と同じであればそれがスタートなのに、まるでゴールであるかのように。
病気を診断してもらったり、どうして子供が動かなくなったのか、親が思うように出来ない納得できる諦める理由は皆と同じでないからなのか?特別だって思ってるのに、みんながやれることも最低限できるはず。
全知全能だと良かった。
遺伝子レベルで親と同じ長所と短所に、お互いそっくりすぎる。
もし誰からも認められなくて、人とは違う劣ってる親とも全然違う自分は異端児って感じたり、人から言われたとしても、むしろそこが良いところ。
あなたのそばにいる周りの人達は、あなたの才能に気づいていないだけ。誰も認めてくれなかったらもう自分でいい。そこが最重要事項。
みんな言いたい事は言うけど結局いざって言う時は自分1人でやるしか無い。自分を助けるのは自分でしかない。
普通
と言うか聴いた。色々と便利で簡単にをありがたく思い、ふと感じる何かを書籍のタイトルになぞらえて自身を内省する。
主人公の不安や恐怖心、猜疑心に深い共感と安堵感を覚え愛おしくなる。
これが好きとは公言し辛いが、人間たらしめる潔さや心地良さにささやかな自由を得る。
そんなどうしようもない自分でもどこかに安住の地があるような儚い希望を見い出せ、そういうもんだと妙に納得したり、笑い飛ばせる気さえして明るさを取り戻す。
「世間とは個人」
四十を過ぎた辺りから、広く一般の世間が言っている事は大抵は自身の振り返りで、その人本人が感じている戒めみたいなものを、自分も大変苦労して来ているから、出来るだけ相手の為を思ってせっかくだから一生懸命伝えてくれている。が、受け取るかどうかは聞かされた側が決める。
魂の救済は聞いてもらっている側がされている。
そんな風に捉えれるここ最近、随分と自分は大人になったんだと少し誇らしいような、歳を取るという事は横柄で偉そうかつ鈍感になっているとも思えて複雑怪奇ではあると同時に、これから先の起こり得る出来事も、まあそれとなくゆけるのではないかと、自身が雄大な心持ちになった気さえして思わずふふと笑ってしまう。
子供を育てるとなった時、大人らしくあろうとしていた。親らしく、世間一般の人並みに普通で。
普通とは一体何だろう。
自身の楽しみや喜びはさて置いてでも、得ることの出来なかった一般的な普通の愛情を、愛しみを子供に全力で注ぎたかった。
でも持ち合わせてもいない、触れた事の無い自分の中には未だない未知の世界のもので、だからこそ目一杯頑張った。
「なんでうちは普通じゃないの?普通のお母さんがいい。」
普通って何?自分じゃない自分で無理してた。
なりたい自分や憧れの存在はあったとしても、自分がこうなりたいこんな服が似合うようになりたいこんなあんな…それは自分じゃない。
自分だけの唯一無二の良さが絶対ある。鏡の前でぼさぼさの髪でにいっと笑ってみる
もうええんちゃうかな。もう充分頑張った。
私も子供も。
もうここからは楽しいことばっかりでいい。