子どもが学校に行ったよ。

こんな自分だからこそ。日常が嬉しくありがたいです。

影響力



ストレングスと言う言葉があります。

子供が学校に行かなかったとき私はまだ知りませんでした。どうしたら良いのか分からずいろんなところを駆けずりまわり、いくつものカウンセラーや公共機関を渡り歩いたとき、もし知っていたら子供は中学高校と苦しい思いをしなくて済んだのかもしれません。

自宅に1人朝昼逆の生活になった子供を寝かせ焦った気持ちのまま、仕事と家事の隙間を縫ってあらゆる所に出向き、書籍を読み漁り犬を飼い、私自身の心も体も疲れ果てていました。

でも絶対に子供は悪くない、私のやり方を何か、誰かどうしたら良いのかもう分からない中、こんな親を持った子供に対する申し訳ない気持ちからも出来る事は全部やると決めていました。

ですがそれは子供が復帰し日常を楽しく過ごさせてもらえるようになったつい最近、自分も何か今辛い方のお力になれないかと勉強始めた時に、福祉の現場ではもうその言葉が当たり前になっていると言うことを知りました。
一概に全ての場合に当てはまるのか定かではありませんし、私の場合ありとあらゆることをした上でそれが功を奏したのかもしれません。

その人自身の元々生まれ持っている何かであったり、ほんのささやかな上手く行ったことも、昨日より少し努力出来た事でも、本人にフィードバックする、子供のどんな反応にも一貫してブレない我が子を思えば必ずできる、ただ自分が親が周りからそう接してもらえるチャンスに出会えていなかっただけのものでした。

その親もまた代々受け継がれてきた子育てを、無意識のうちに繰り返し、生きる事に子育てに精一杯で、自身の人生にその事を知るきっかけやタイミングが無かっただけで、私はたまたま子供を通じて知り得ただけで本当にラッキーでした。今でも子供から教えてもらえる事は数知れずいつも感謝しています。


その当時私は自身の親から受けた影響や、それを自分の子供に対してどう接するか言葉掛けや態度など、何かを変え無ければ今のままでは良くないと感じていました。親には子供に対する愛情が大なり小なりはあるのに、子供にどう表現するかによる結果の違いは何で、きっとアプローチや信頼の構築による原因と結果だけの事なのでは無いかと考えました。

 

シンプルに親の話し方や言葉選びがどう子供の心に届き響いてるのか。負の連鎖の様な各家庭の根底にある感情や心理論ではなく、ただそこにある淡々とした日常の挨拶のような言葉掛けでそれが有りさえすれば、相手がどうあろうとも微笑み返す、気分を逸らす、ハグするなどによる多少なりとも安心感を与える何かで、それとなくその場をサラリと抜け出せるとでも言うのでしょうか?


そうする事により今日、今起きた出来事を一大事にせずに済み、まあそう…あれ?まぁいいかと思えたら大成功なのではないかと思いました。

ストレングスのフィードバックは勉強ができる、何かの結果を残す事を褒めると言うことではありません。
まして子供との信頼関係がないとこちらの話に耳を傾けることもなく、まず心を開いてくれません。
自分がどれぐらい謙虚でかつ真摯に子供と向き合えるか、子供は本当に何でもよく見てその年齢なりに理解しようと自分なりに良くも悪くも今までの親との信頼関係の上で解釈しています。

それとなく目を離さずに手を離す。
信じて黙って見守る。
考え真剣に取り組む事も大事ですが、笑い飛ばす懐の深さも必要かと思います。



こんな私ですがいつでもそばにおるよって思ってます。

 

 

 
 

 amindlife@gmail.com

いつも答えは自分の中にある

就職も決まりバイトに勤む子供のシフトに衝撃を受けた。朝9時から夜11時迄。ん?ブラックやん。

大学4回生でなかなか雇ってもらえない、にしてもオトナ社会の洗礼を受けている。いつ何時でも命に関わる事以外は、一切を笑い飛ばすと決めてはいるが、もはや身体が心配だ。

 

幼少期から3歳下の子が体調不良で一緒に出掛けられない時でも、自転車で1人遠乗りしようとする我が子の目を見て「必ず無事に帰ってきて欲しい。でないと私は横に居て助けてあげる事も出来ないし、ましてや君に何かあったら私も生きておれん。送り出した事を後悔したく無い。」と告げていた。

 

今思えば小学校の子供に伝えるには、重めだったかも知れない。思いっきった事をし辛い上の子の抱える大変さを押し付けてしまったかもとも後悔している点ではある。

 

君が自由にやりたい事をやるには信頼しているが、自分で考えて行動して欲しい。楽しんで思う様に生きて欲しいが、それには責任が伴う事を知る必要があると示唆していたと思う。

 

それを踏まえてでも冒険に出掛けて行って欲しい。少しぐらいの不安があったとしても、沸き起こってくる気持ちや自分を突き動かす衝動には正直であれるようにと、子供の「したい」に出来るだけ寄り添い肯定することに努めていた。

 

携帯も持たせて居なかった子供に、自分の直感や感覚を信じて、土日主人が仕事で母1人ワンオペだったとしても、行きたい所に行きたいタイミングで自由に1人でも出かけて思いっきり楽しめるようになって欲しかった。

 

ただ、アルバイトなんやしそんなに責任負わんでも…オープンニングとは言え社員なん?とも思う。やはり親のこだわりは子供に強く出てしまうものなのだろうか。またしても申し訳ない気持ちで一杯になる。

 

今日も何とか無事で日々繰り返される新しい冒険の真っ最中を楽しんでいる事を祈りつつ機嫌良くいて欲しいと願っている。

 

 

 

 

 

 

寝るしかない。

今週のお題「やる気が出ないときの◯◯」

 

 

やる気、元気、勇気…これって誰が言ってくれてたかな。言ってた順番もあやしいが、シンドい辛い時あかん時はもう寝るに尽きる。

寝れないぐらい考えが巡るとしても…

今日の終わりは明日の始まり。

目をつぶってじっと横になりさえすれば、寝ているのと同じ形だからもうそれで良いらしい。

 

実際色々あると寝れないものだから、義理母のこの話を聞いてから、何だか諦めがついてとにかく何でもいいから横になるだけでも、と思えて楽になれた。さすがレジェンド。

 

今ではもうそこに座ったまま、1分でも上を向く、息を吐く、目を閉じる…からの、何でもいいから気を逸らす。楽しいこと考える。何でもありで、まぁええか。

 

そういう事もある

子供だって誰からも干渉されずに、1日中ダラダラしたり、ご飯も食べずにお菓子を食べて、好きなようにしたい日もある。

 

でもそれが正しいか否かは本人だって充分わかっている。

 

だけど大人だってそうなように、自分を解放して甘やかしたりできる場所があって、やった!

自由だ!って思える日があってもいいと思う。

 

アイスばっかり食べてお腹を壊して初めて、あーお腹痛かった。もう次からは考えて食べようって思えることが大事なんじゃないかな。

 

だけど学校に自ら行くようになるまで、子供に好きなようにさせて待ちましょう。

 

とは私には思えなかった。子供なりに日常の大変なことにうまく折り合いをつけつつ、思うようにできる安心感のある居場所とあったかいご飯、たとえそれが出来合いだろうが、作り置きのご飯だろうが、チンしたやつだろうが、今はわかってもらえなくても、大人が本気で向き合ってる生き方ってきっと子供にも伝わってるはず。

 

て思ったけどなかなか伝わりづらいもんやから、日常からハグと大好きはめっちゃ言ってたか。

 

やっぱりまだ子供やからほっとしたい。温かい気持ち、お母さーんて泣きながらくっついていけるって本当に大事だと思う。

 

それを繰り返して行くうちに、段々と子供なりに遠出する距離が伸びて行く。

 

「まあええやんか、そういう事もある」って

一緒にいて笑い会える安心して、自分をさらけ出せる、いつでも帰れる居場所があるって幸せだと思う。

 

そういう、そのタイミングをできるだけ見逃さないようにするには、私は1つのことに集中してやる方が向いてるかもしれないと、専業主婦として子供の側に居させてもらえた事がありがたかったし主人にとても感謝している。

 

だけど自分自身の居場所、やりたい事、仕事に取り組んでいた頃の充足感や、やりがいをどう子供を育てることに見出していってよいのかわからず、また自分とはまったく違う出来立てホヤホヤの新しいこれから希望の塊でしかない子供に、自分は周りとあまりうまく馴染めていないと、うすうす気づいていたのにもかかわらず、どうやったら社会一般に通じる良い人間を育てれることができるのかと言うプレッシャーに、気持ちとの折り合いがうまくいってなかったのかもしれない。

 

でもそう出来るようになるには、無条件に信じる、相手を、周りを、自分自身を。

 

これがまた私には特別難しかった。

全力

結婚、出産までは実家暮らしのそれとなく大人で、社会人として真面目に仕事し人に迷惑をかけたり誰かを傷つけたりすることのないように人並みに生きて来たつもりだった。

 

確かにあまり人付き合いが得意な方ではなかったし、社交的かと聞かれればそうとも言い難い。プライベートでは思った事を伝えるのも苦手だった。

むしろどちらかと言えば、仕事の方が楽しくて結果を出そうと頑張っていた自分に満足していたような気がする。普通にそれなりに充実していたように思う。

が、子育ては私にとってかなりハードルが高かった。

それまでの私は自分の事であればまあいいか別に死ぬこともないし、とにかく今目前の事をやりっ切って遊びに行くぞ…という感じで、前向きな姿勢でいれたのに子育てがこんなに盛り沢山の仕事だとは。

 

まず子供が寝ない。出産ギリギリまで仕事で何も出産後の大変さを想像していなかった上に、妊娠中から体調不良でもちろん出産後は更に悪化した上での寝ずの子育て。

体調が悪いという事は必然的におっぱいの栄養状態も良くなかったのか、子供は延々と飲みたがって、私は何も知らないのにもかかわらずなぜか母乳育児にこだわり、子供はきっとひもじかったに違いない。思い込みとは本当に恐ろしいものだ。泣いている赤ちゃんを見て、こんなにおっぱいが出ているのに寝ないのはなぜかと、目下の子供を見ずに書籍を漁りまくっていた。

例えば日中おひさまに当たるお散歩もつれて行ってもらえずに、ひたすら栄養価のない物を食べさせらてている赤ちゃんの機嫌が良いはずもなく、それ以上に寝ず、飲めず、食えずの母親との共倒れ状態だった。まあ確かにいい結果を得られるはずがない。

当時は大真面目に子供の事を考えていたと思う。

周りの人がなんと言おうが預けられる人や公共機関など、甘えさせてもらい上手な人であれば、是非に。私は残念ながらそのスキルを持ち合わせていなかった。

寝られるし食べさてもらえることがこんなにも大切だとは…

当たり前の事なんて世の中にはないのかと思い知らされた。親に周りに感謝出来る貴重な体験だった。

出産前の私は母親教室なんてその当時あった?ぐらいの全く予備知識無しで、勢いだけで何とか無事に出産を迎えることができた。子供よ本当にすまない。そんな母親と名乗ってはいけない私にとってなんとありがたいことか。

 

だがしかし行き当たりばったりの子育ては順風満帆とはおいそれとは行かせてもらえず、本当に子供に育ててもらったと言わざるを得ない。

 

もちろんメンタルはボロボロ、寝れず、趣味の音楽なんて聞けず、だれが大好きな映画を観れる?よく考えたら食事って自分で作るもので、ろくなものも食べれていないのだから子育てを楽しもうなんて先ずは生きていく上での何かが必要なのに、それはひどい状態だった。

 

思うに私の所に生まれてきてくれた子供は、今まさに「#ていねいな暮らし」を地で行けるぐらい料理も上手く、人当たりもよく、他にも諸々家事全般をサラッと難なくこなす若者だと思う。子供は生まれた時からずっと頑張り屋さんで生きてきたはず。

親ばかを差し引きたいところだがまあそれは諦めたとして、もし神様がいて親育てで自身の大切な成長期に割と苦労してきたであろう子供に、何かささやかな贈り物を頂いたとしたらそれは、子どもの丁寧な人柄や物事に対して自分で考えて行動するしかなかった才能ではないかと思う。

 

全力のポンコツ親で本当に申し訳ない。

わたしの周りの方々にいつも感謝しております。ありがとうございます。

 

 

 

 

居場所

50歳を過ぎた。改めて感謝し幸せを享受させてもらえる日常に嬉しく思えるようになった。

音楽アプリが楽しくて。
自分の尊敬する人にまた会えた気がした。いつも笑顔で優しげで…でも言葉は厳しく、その実は本気で励ましてくれる熱い人で、私はその人を通して父親を見ていることに気づき、この年でまだ親の難解な愛し方、自分の欲しかった形での言葉や安心出来る居場所を探していた幼少期の自分に気づかせてくれた事に感謝している。

私の1番近くにいて、家族を温かく見守りつつ黙々と自分の目指す何かにひたむきに進み、いつも傍で優しく微笑みつつも、人は1人では生きられないが、自分自身に戻れる1人の場所がお互いに必要だと認識し合えているパートナーや、その遺伝子を併せ持つ子供たちにも。

思うに個人も企業も必死に自分なりの表現方法で感謝の気持ちをどうやったら、この想いを伝えられるのかということに、愛を持って生きているからこそ何か形にしたいと強く望んで、明るく朗らかに日々を送っているように思える。何をもってして幸せか、何を信じるかは人によって様々だが、少なくとも自分のことを他者が信じてくれている環境に身を置けている今自分はとても幸せだと感じるし感謝だ。自分は信頼に値する人間になりたいと切に願い、なんとか実直に生きているつもりではいるが、もしかすると人はいつも素の自分をさらけ出せる居場所を探しているのでは。

親にも友達にも恋人にも音楽や映画スポーツや学問にも。今更ながらだが、子供が学校に行かなかった時そこに居場所がないと感じたのだろうか。自分なりに努力して必死で周りと歩幅合わせたが、お互いの気持ちの共有や愛情を感じられずにガッカリしたのかもしれない。

居場所とは楽しみや喜びを感謝の形にできるところなのだろうか。
誰かと同じ場所もよいが、1人で過ごしていたとしても自ら望んでふわふわと楽しく温かい気持ちで満たされ、それが思わず自分の中から溢れ出てきた状態で、愛情を持って自分自身にも思いやれることができる所ということなのか。

「まぁゆっくりしようよ」ってパートナーの口癖

今思えばそれは「柔軟性」の塊で広く大きい愛だと感謝している。
それこそ洋楽の意訳のような…自分に良いように、かなりの力業をもってしてどうにか何年もかけてお互いを思いやる気持ちの共有が出来るようになれた場でもある。

周りからの過干渉が愛情と思って人生を送ってきたので、気づかないうちに自分を縛り付けているものが、自分の幸せと勘違いしてたかもしれない。1人で立ってその時のタイミングで一緒に楽しめる何かが、誰かが、SNSがあることに感謝しつつ、改めて今大人が本気で真剣に真面目にふざける愛のある場所が大切なのではないかと感じる。

社会規範や法的なルールの中でどれぐらいギリギリで楽しめるかっていう大人の本気をもっと周りの若い人に見せていくことってすごく大事なんじゃないか。愛想笑いじゃなくこういう人もいるって言う自分をさらけ出せるあたたかい場所。
本人はいたって真剣で真面目にやり続けてるが、みたいな愛すべき人が世の中にはたくさんいる。
人に迷惑をかけたくない。真面目に一生懸命やろう。自分が納得することじゃないとダメ。
ほんとにそう? 1番寂しいのは自分自身なのに?

学校に行かない事を苦しんでた子供が、深夜2時にオンラインゲームの大人に「こんなとこで何をしてる。まだお前は間に合うから大丈夫」って支えてもらってたこともすごく有り難かった。自分1人でなんとかしようなんておこがましかったのか…。

今思うこと

大好きだから。あなたを大切にしたいから。

 

あなたが選んだ事だから。

 

あなたはそれが良いと感じるんだよね。

だからそうしたいんだよね。

勇気を出して言葉にして伝えてくれて、

態度に示してくれて、本当にありがとう。

 

大丈夫だよ。

 

あなたが自身を信じて行ってくれる事が、私にとって、1番嬉しい。

 

あなたがあなたらしく居てくれる事が、私にとっての幸せだから。

 

たとえそれが人から見てあまり良く無いと感じる事かも知れないけど、でもそれを選び取れるあなたには力がある。

 

無理してない、ゆるやかで穏やかな人生ももちろん良いよ。でも何をやってもきっと色んな事があるしそれすらも楽しめる、振り返れる日がきっと来る。

 

その時まで、時間を忘れるぐらいに夢中になれる、みんなとは違う力があなたにはあるから、わたしはそれをいつまででも信じてる。

 

わたしはあなたが大好きで、大切な人だからそれは覚えておいてね。